特選作品 徳川綱吉の館林城5月003水の下塗り

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この水の下塗りは単にプラカラーを調合(適当に)して塗りつけて、
その上に水性ニスを塗っただけなのですが、5月をイメージして
グリーン色をベースに青・白・銀を混ぜてみました。銀を気持ち
多く入れたことで少し光った感じの雰囲気になりました。
 

特選作品 のぼうの城・忍城・秋002縄張り

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忍城は中世の城郭の感じで作ります。
それはのぼうの城の時代背景は小田原合戦の時であり、
北条の小田原城も中世の城郭の域にあり、当時の関東のお城も
同様だったと考えられるからです。三層の下板張りの天守閣と
高矢倉を作ります。現在の復元忍城とは全く違うお城となります。

特選作品 徳川綱吉の館林城5月002三層の天守閣のイメージ

■館林城
城郭構造

天守構造

築城主

築城年

主な改修者

主な城主

廃城年

遺構

尾曳城
梯郭連郭複合式平城
なし(三階櫓で代用、非現存)
伝・赤井照光
15世紀
榊原康政
赤井氏榊原氏松平氏徳川氏ほか
1874年
曲輪、土塁、復元門
尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされる。徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。
 
室町時代
城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 
戦国時代

その後、越後上杉氏甲斐武田氏相模北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。 宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。
上記フリー百科辞典より転記
 
 
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徳川四天王の榊原康政がこの地に入って石垣や天守を作ったとなれば、江戸幕府開府と同時となるため天守閣も徳川家康の江戸城の天守閣や同じ徳川四天王の居城の高崎城や彦根城などと共通しているところは時代背景から考えればありうると思う。土塁の上に石垣があるのは江戸城の桜田門から半蔵門付近などにも見られるし、彦根城にもある。 また沼と言うか水城は水戸城なども近い要素ががある
そこで、土塁の上に石垣を要所要所に配置し、初代江戸城天守閣に似せた天守閣を三層で作ろうと考えました。
 
また館林の位置は日光街道となることから、日光参拝の通り道となり、二の丸に御殿を設置し、本丸御殿は将軍家宿泊の為にあったと考えても良いと思う。
 
そんな感じで作る予定です。

特選作品 のぼうの城・忍城・秋001縄張り

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のぼうの城・忍城を作ります。
今回の作品は合戦シーンの忍城では無く、のぼうの城の時代の
忍城を作ります。合戦シーンは別の機会に作ろうとは思っています。

現在の忍城の縄張りと若干違うようです。
石田三成の軍勢が攻めたとされる縄張りの書いてあるものを
参考に縄張りを作りました。

忍城は水城なので比較的に軽く作れますので、模型を置くスペースを
考えて壁掛けタイプとして作ります。

特選作品 徳川綱吉の館林城5月001

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徳川綱吉の館林城の推定復元模型を作ってみます。

徳川の重臣が居城としていたのに縄張り図と城の絵馬ぐらいしか
資料がなく、幻のお城です。

まずは縄張りを作ります。

沼に面した水城です。

水戸城を作る 010 完成

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徳川御三家の水戸城が完成しました。

今回、この水戸城を作るのに城壁が多いために部品集めに時間がかかりました。
櫓などは少ないのですが、市販キットには塀はあまり入っていないのでいくつ
キットから流用したかは忘れました。
まあ、水戸城を作る方も少ないと思いますが、実際に作られると部品集めに
苦労されると思います。

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水戸城を作る 008 東二の丸(下の丸)

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水戸城の縄張りの一部修正をしました。本丸の下に位置する
東二の丸(下の丸)の部分が、本丸よりも少し高い状態になっていた
ので修正し下の位置まで削り込みを行いました。これで下の丸に
なった(^^;

水戸城を作る 007 二の丸・本丸

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二の丸御殿は高知城の御殿と和歌山城の渡り櫓を利用して作ってみました。
また本丸に2つ、二の丸に1つ櫓を設置いたしました。二の丸には天守代用の
三階櫓も設置してあります。 まだ建物は少し取付けることになるですが、
二の丸・本丸内の建物としてはたったのこれだけで大半の建物がついた形に
なってます。

この水戸城を作っていて凄く面白く感じたのは・・・時代背景と言うか
時代が変わったような感じを受けた。徳川御三家の居城として比較しても
思うのだが、名古屋城は対豊臣家、対西国大名、対前田家などの抑えの
拠点であり大坂包囲網の最重要拠点として作られたはずであり、和歌山城は
対大坂、対四国、雑賀衆や根来衆の残党対応などの拠点でもあったはず、
それに比べて水戸城は東北方面における江戸城の前衛拠点ではあるが、
水戸城の前には鶴ヶ城もあり東北の最重要拠点にはなっていた。
上杉家も力が無くなっているし、伊達家ぐらいが有力だが伊達家が
南下してくることは無くなっている時代になってしまったはず。

また関が原、大坂の2回の陣が終わり、豊臣家が無くなった後では
更に時代が変わってきてしまう。それでも先日、完成させた金沢城などと
比較すると外様大名の前田家の金沢城の構えはやはり対徳川を意識した
構えがあり、櫓の数も多い。 実際の水戸城は藩主が江戸詰めとなり、
藩主不在の城の為に天守も無かった説明があるが、場所から考えても
すでに戦いが終った感じの城であり、屋敷のような感覚に変わってきている
と思う。実にのどかな感じの城であり、物足りなさを感じるもののある面
面白い城だと思いながら作っている。