特選作品 徳川綱吉の館林城5月002三層の天守閣のイメージ

■館林城
城郭構造

天守構造

築城主

築城年

主な改修者

主な城主

廃城年

遺構

尾曳城
梯郭連郭複合式平城
なし(三階櫓で代用、非現存)
伝・赤井照光
15世紀
榊原康政
赤井氏榊原氏松平氏徳川氏ほか
1874年
曲輪、土塁、復元門
尾曳(おびき)城ともいう。15世紀に築かれたとされる。徳川四天王の一人榊原康政が石垣や天守を持つ近代的な城に造り変えた。
 
室町時代
城については、江戸時代になって書かれたもののなかに、赤井照光によって築かれたとするものがあり、「狐の尾曳伝説」として知られているが、現在確認されている館林城について書かれた最古の古文書は、文明3年(1471年)に上杉軍が赤井文六、文三の居城である「立林(館林)城」を攻略したという記録である。
 
戦国時代

その後、越後上杉氏甲斐武田氏相模北条氏による三つ巴の攻防のなかで長尾氏北条氏などが館林城を支配するようになったが、天正18年(1590年)の徳川家康の関東入封に伴って、徳川四天王の一人榊原康政が10万石で城主となった。

江戸時代

江戸時代に入ると、館林は利根川を押さえる東北方面への要所として、また、徳川綱吉が五代将軍になってからは将軍を輩出した地として重視され、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた七家の居城として栄えた。
かつては総構があり、本丸には三層の天守と二重櫓が一基、御厩曲輪(再築後の南曲輪)にも二基の二重櫓があり威容を誇っていたが、天和3年(1683年)に徳川徳松が急死すると廃藩となり廃城となった。 宝永4年(1707年)松平清武が入封すると館林城は規模を縮小して再築され、本丸に天守代用の二重櫓が、南曲輪と三ノ丸にも二重櫓が一基ずつ上げられた。
上記フリー百科辞典より転記
 
 
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徳川四天王の榊原康政がこの地に入って石垣や天守を作ったとなれば、江戸幕府開府と同時となるため天守閣も徳川家康の江戸城の天守閣や同じ徳川四天王の居城の高崎城や彦根城などと共通しているところは時代背景から考えればありうると思う。土塁の上に石垣があるのは江戸城の桜田門から半蔵門付近などにも見られるし、彦根城にもある。 また沼と言うか水城は水戸城なども近い要素ががある
そこで、土塁の上に石垣を要所要所に配置し、初代江戸城天守閣に似せた天守閣を三層で作ろうと考えました。
 
また館林の位置は日光街道となることから、日光参拝の通り道となり、二の丸に御殿を設置し、本丸御殿は将軍家宿泊の為にあったと考えても良いと思う。
 
そんな感じで作る予定です。

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