作品NO.344 松江城A4夏 20190605~0607完成

20190607PM15:48

松江城A4 3日半で完成

 

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松江城の建物の組み立てが終わり、後は城塀と城門、植樹で完成となります。明日夕方の宅配便には間に合う予定。

 

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5日27:24になってしまったが、松江城の石垣、土台の塗装まで終わった♪間に合う(笑)

 

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さあ〜楽しくなってきました。松江城A4サイズを7日納品出荷で間に合うか?  ハンディキャップは先日纏めて塗った天守のみ。天守の塗装はしなくて済むだけ。作る範囲は復元図の範囲。とりあえず土台の固定までが現状です。但しこの松江城以外も並行して同時に製作は変わらないが、メインは松江城。

童友社松江城 キット

童友社の松江城をそのまま作ってみました。
キットは以前より3個程持っていたのですが
作ったのは初めてでした。 新金型の城だけに
作り易かったし、モールも細かく出来てます。

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2010年05月18日にオリジナルで松江城を作って以来の製作です。
やはりメーカー品と比べると違いますね(笑)

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津和野城004 完成

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■津和野城
通称 三本松城、石蕗城
城郭構造 連郭式山城
築城主 吉見頼行
築城年 永仁3年(1295年)
主な改修者 坂崎直盛
主な城主 吉見氏、坂崎氏、亀井氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 櫓2棟、石垣、空堀
指定文化財 国の史跡

★鎌倉時代、元寇の翌年の弘安5年(1283年)吉見頼行は沿岸防備のため西石見地方の地頭としてこの地に赴任した。永仁3年(1295年)より三本松城(津和野城の旧名)の築城を開始し正中元年(1324年)完成した。以後、14代にわたり吉見氏が居城した。

★戦国時代から江戸時代まで
吉見氏は戦国時代には当初、大内氏に属したが、戦国末期には最終的に毛利氏に属した。この間、11代当主正頼は天文23年(1554年)に大内氏を滅ぼした陶晴賢と100日以上に及ぶ籠城戦の末、陶軍を撃退した。この際に毛利軍の援護を受け、これ以後、毛利氏に属した。14代当主広長は慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて毛利配下として大坂城を守った。しかし、毛利輝元を総大将とする西軍が敗れ、毛利氏は防長2国に押し込められた。吉見氏も津和野を退去し、毛利氏とともに萩に移住した。

代わって東軍に属した坂崎直盛が3万石(後に加増され4万3468石)で入城し、城の大改修を行った。大手の位置を吉見氏時代の搦手側に改め、出丸や織部丸を築いた。この時、二の丸に天守を築いた。直盛は元和2年(1616年)かの千姫事件で自害(または家臣に殺されたとも)し、坂崎氏は改易となった。

元和3年(1617年)因幡国鹿野藩より亀井政矩が4万3千石で入城。以後、明治維新まで11代にわたり亀井氏の居城となった。

貞享3年(1686年)城は落雷にあい火災が発生した。この際に天守も焼失し、以後再建されることはなかった。

以上フリー百科事典より

津和野城003 建造物作り

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津和野城の縄張りは絵図を参考に作りました。本丸の建物や櫓、
さらに一段下の天守台には三層の天守があったそうですが焼失
してしまったようで、仔細な資料は無いとありました。

天守をどうしょうかと思ったのですが、三層の天守を作ること
にしました。 時代背景から考え高知城の天守を三層に改造して
取り付けてみました。

米子城005 山頂に2つの天守閣を持つ水軍の施設のある城

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■米子城
通称 久米城、湊山金城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 不明4重(1596年)
独立式望楼型4重5階(1601年)
ともに非現存。
詳細は同項の構造を参照
築城主 山名氏か?
築城年 文明2年(1470年)頃
主な改修者 吉川広家、中村一忠
主な城主 山名氏、尼子氏、吉川氏
中村氏、加藤氏、池田氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 国の史跡

米子城には、戦国時代の飯山(いいのやま:国道9号線南側)に営まれた砦と、湊山(みなとやま:国道9号北側)を中心に営まれた近世城郭がある。江戸時代初期には伯耆国一国を支配した中村氏による米子藩の藩庁となり、その後鳥取藩の支城となった。

戦国期には飯山の頂上に、南北約85メートル、東西約35メートルの郭を構え、東と北に野面積みで高さ2メートル前後の石垣を各2段設けていた。門が3か所あり、現在は削平されているが、南が1段高く、建物の痕跡があったという。

江戸期には湊山に新たに築かれ、山頂の本丸、北側の中腹に二ノ丸、その下に三ノ丸を置き、戦国期に米子城の主郭であった飯山は出丸として利用された。四重天守(大天守)と四重櫓(小天守)、30棟の櫓と20棟の門が建てられ、城域の周囲に廻した堀には海水をひき入れていた。平成18年(2006年)1月26日、国の史跡に指定された。

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